2009年06月07日

屋嘉節の物語り


 去年の夏、このブログの基本となる年表_文章を書き上げた金城守堅のご子息、正博さんの
はからいで、キャンパスレコードの主宰者であり沖縄音楽界をバックアップしてきた生き字引的存在でもある
‘ビセカツ‘_こと備瀬善勝先生にお会いできる機会をいただき、
守堅氏作とされる屋嘉節_PW無情にまつわるエピソード
等など、直接伺うことができました、

 それらの唄の歌詞を見て、「これは自然発生的な唄ではない_作者がいる筈だ」_と直感し、
当時の捕虜隊長だった山田有昂さんの手記などをもとに金城守堅宅を訪問し、
「屋嘉節を書きましたか?」_と確認したのがビセ先生だったとは、驚きました、

 なぜ屋嘉節_PW無情、というわざわざ似たタイプの替え歌があるのか?、
個人的に「こうだからじゃないか」_と思っていたことがここで改めて点と線を合わせるように合点のいくかたちで
ご説明していただきました、

 やはり金城守堅氏は沖永良部出身であるがゆえ、自分の書く沖縄標準方言に完全な確信まではもてず、
山田有昂、新城朝保氏に添削を依頼した_、
最初に一人で書いて歌詞をのせたのが屋嘉節で、次に添削を依頼して歌詞をのせたのがPW無情_
というのが真相のようです、
時々つい混合してしまうこの二曲ですが、この理由からたぐれば納得できます、
添削を依頼した曲にさらにもう一曲_「敗戦数え唄」_がある点もこの話しの真実味を益してくれています、

ビセ先生のお話しのなかで面白く_且つ驚かされたのは、
歌詞を眺めながら_

「こういう発想はの沖縄民謡をつくる人達の発想にはあまりないんですよ_、
民謡の人だともう少しセンチメンタルになってしまう、、、
こういうことを唄にすること自体_、、、
それにこの字(PW)を入れること自体が_、、、」

_と、戦後の沖縄民謡史の代表的な曲の一つにたいして
‘他の沖縄民謡とは少しタイプが違う‘
という内容のことをおっしゃられたこと、、、

ちょっと目が点になりました、、、

(個人的な補足ですが「敗戦数え歌の中で_‘物量と科学‘_という言葉を民謡に入れてしまう
大胆さにも同じタッチを感じる次第です)


全くといっていいほど語られないことですが、作者が沖永良部出身であることが、
これらの作品の要所々で影響しているようです、


また、金城守堅とのいくつかのやりとりのなかで、

ビセ先生_
「はじめて金城守堅氏を尋ねたとき、彼は古典「水鏡」を読んでいまして、、、
当時の沖縄で「水鏡」を読んでる人なんかいなかったのでびっくりしました_」
______

ビセ先生_
「なぜあなたのような保守的な方が厭戦歌の代表格のような屋嘉節をかいたんですか?」の問いに

守堅氏_
「備瀬くん!敗戦直後の時というのはね、国民ぜんぶが詩人でした‘‘‘、」
と答えた一節、
_などなどの沢山の面白いお話しにとてもとても興味をそそられました、、、



先日沖縄博物館に行った際、戦争_のコーナーでこの「屋嘉節」_の歌詞が展示されていて、
曲がエンドレスで流れていたのをみて、
改めてこの曲の重要さを思い知りました、

今年もまた沖縄終戦記念日が来ようとしています、

戦争のない世界_が人類の理想です

人々の平和を願う気持ちは永遠です!










  

Posted by yasu-ken at 01:52Comments(1)TrackBack(0)余談

2008年08月05日

殿内の門はバッタイバッタイ

 そのジッキョ・ホーにまつわる唄です、

「トゥンチのジョーはバッタイバッタイ、メンソ(前利)のアヒルはハン(羽)タタチ、ホー(川)ヌうなぎは目ぐらぐら」

昔から言い伝えられた唄だそうです、
内容を解説させていただきますと_、

_かつて瀬利覚集落の東南部一帯は殿内の田んぼだったそうです、
その田んぼの水が渇れてくると、集落の人々総出でジッキョ・ホーから
桶、等で水をくみだし、殿内の門の所から水を流し出すので
旧道路伝いに田んぼに流れ落ちます、

メンソ(前利家)のアヒルは水が満たされたので、
喜んで羽をバタバタさせます、

瀬利覚川のうなぎは水の量がグッと減ったので、
びっくりして目玉をギョロギョロさせた_そうです、
___

こんなシンプルな唄からでも、幾つか知らせてくれることがあります、

・瀬利覚東南部一帯は田んぼだった_ということ、

 今となっては、田んぼはまったくありませんが、
 かつて、多量の水を必要とし、瀬利覚川からひっぱっていた
 _ということ、
 ひょっとしたら、その米は税として琉球にいってたのでしょうか_、


・この時期に平和だったこと_、

 宗岡里吉さんも本のなかでこの唄をひきあいに出され、
 「まさに財力平和時代」_と記されています、

 なぜ平和だったことに大きな意味があるか_といいますと、

 この時代_おそらく1800年ごろ、
 奄美大島は_砂糖地獄_といわれ、
 財政に追われていた薩摩藩ができるだけでも多くのさとうきびを
 売る必要にかられていた為、ほんの少しでも島民がそれを口にしようものなら
 拷問にかけた_といわれています、
 徳之島でも重税に対しての暴動を唄った犬田布嶺節(いんたぶれ)
 があります、

 このように ‘奄美‘_と、ひとくくりにすればかなり限界までの
 耐え忍ぶ暮らしを強いられた_と記されている文献がひじょうに多いですが、
 この沖永良部島からは、悲惨な状況をうたった唄がほとんど聞かれません、


当時、意外にも平和で、またせっせと働く人々の姿がうかびあがってくるようです_。






 






























 




  

Posted by yasu-ken at 01:53Comments(4)TrackBack(0)文化

2008年08月02日

ジッキョヌホーが名水百選に!

 2008年6月に瀬利覚字の川(通称ジッキョヌホー)
が平成の名水百選に選ばれたそうです、

喜ばしいかぎりです、

このブログ内でもはずすことのできない、
古くからここの人々に生活の中心にあり
この川を舞台にさまざまな物語りが生まれています、

ジッキョヌホー 永遠なれ!
  

Posted by yasu-ken at 15:07Comments(0)TrackBack(0)

2007年02月21日

家の柱をささえた石


以前、宗岡里吉氏著の「瀬利覚昔話し」_の文中に
‘明治十八年(1885)百栄じいさんが殿内(金城)の中屋を買い取りました・・・
・・・殿内から買った四間半の屋敷は希望の場所に建てるには大きくて、いっぱいいっぱいで無理でした・・・
_という下りがあり、それをよんだ自分は_‘ん_家を移動させたのか?_
と不思議に思いました__  続きを読む

Posted by yasu-ken at 01:11Comments(1)TrackBack(0)文化

2006年11月19日

島の旧正月と三本の掛け軸


こちらも殿内家に伝わる三本の掛け軸です、

この掛け軸_普段はしまわれ、正月に(もちろん旧暦でしょう)掛けられ、来る年を祝ったようです、

 やはりこれも、‘琉球の時代‘から伝わっている_というだけで十分なのですが、  続きを読む

Posted by yasu-ken at 01:27Comments(1)TrackBack(0)遺品

2006年11月01日

十二夜の晩と平皿


上の写真の平皿は、殿内家に伝わるもので、
直径、約50センチぐらいのけっこう大きめのものです、  続きを読む

Posted by yasu-ken at 23:43Comments(2)TrackBack(0)遺品

2006年10月20日

三尺の通路アリ(弐)


この道は殿内家の北側、豊見城家(とみぐすく)と上城家(ういぐすく)の間にある道です、

これもほぼ三尺_と見られます、
この道の前に立ち、 パッとその場で見て感じることは ‘ンー 狭い‘ ‘通っていいんだろうか‘
_です、

‘用がある人以外は、できれば通らないでくれ‘
_これがこの道の言わんとしていることじゃないか‘‘‘とも思えてきます、  続きを読む

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2006年10月09日

三尺の通路アリ。


 正面から入って左側に見えるこの石垣とブロック塀の三尺(約90cm)の隙間__
殿内家(トゥンチ)と西殿内家(イードゥンチ)の間にあるものです、

なにも知らずに通り過ぎれば
なにも気づかずに見過ごしてしまうこの空間、

あえて ‘注目してみてください‘ と言われなければこの隙間にはわけがある_
なんて考えもしないのが当然でしょう’’’  続きを読む

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2006年10月01日

庭の石(2)



こちらはおとなり、メードゥヌチ(前殿内家)の石です、
こちらの家は今回の道路工事の際、土地のかなりの部分を削られることになり
住居の移動を余儀なくされてしまいました、、、

人が住むにはきびしいスペースが残ったのですが、
やはりご先祖様からの土地、ご愛着があったのでしょうか、
あえて手放すことはされず、そのままにしておかれています。

代わりにこの石が外から見られるようになりました、  続きを読む

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2006年09月20日

庭の石と城壁の穴



右側の2枚の写真、穴のあいた石は、代々置かれている石です、以前は庭の丘のへり立った箇所に置かれていました、
不思議に思い‘あの穴のある石は何の為?‘--- と尋ねると、
‘敵を見張る為‘---とか‘人や役人を見張る為‘ などなど納得できるようなできないような答えがよく返ってきましたが、 琉球時代の城と照らし合わせてみると、何を意図しようとしていたか少し見えてきます、  続きを読む

Posted by yasu-ken at 00:29Comments(0)TrackBack(0)文化

2006年09月19日

高倉 !



瀬利覚 殿内家にあった高倉の写真です、
門から入ってすぐ右の位置、
二棟あったそうです、
1955年、前後の写真でしょうか?

左の文章は、宗岡里吉氏の書かれた、「瀬利覚に伝わる昔話」より抜粋させていただきました、
機能的な部分と象徴的な意味合いがあったようです。  

Posted by yasu-ken at 22:53Comments(0)TrackBack(0)文化

2006年08月09日

唐のアジ の話



 時は1810年頃、瀬利覚(ジッキョ)_殿内家三代目,金城加那(1797~1883)--と計6人で琉球へ税を納めにいったとき
(遊びに行ったとき---という話もあるが、実際その両方ではないか、とおもわれる)

その途中、台風に遭い船は台湾に流されたそうです、

当時、琉球入港に失敗し潮に流される=台湾に行き着く=高砂族という種族に殺される、
と、いうのが一つの定番だったようで、親族一同は ‘きっと死んでしまった‘
と思いあきらめていたそうです、(墓までつくった---ということをきいたこともある)  続きを読む

Posted by yasu-ken at 18:51Comments(2)TrackBack(0)1800年代

2006年08月09日

改めて系図の年代を調べ直した人


 改めて系図の年代を調べ直したのは、金城守堅氏 でした、

もともと親族の間で ‘こうであっただろう‘ と言い伝えられてきたことではありましたが、
彼が改めて沖縄各地をまわって、具体的に起こった年代---等々調べ直したそうです、

ついでながら---

守堅氏、 戦後沖縄の民謡、代表的3曲の作詞者---でもあります、
「屋嘉節」 「PW無情」 「敗戦かぞえうた」 です。

これらの曲々 ネットで検索するとかなりの数がヒットします、
作品がひとり歩きしている・・・というある意味では作者冥利につきることではあるのですが、、、

おきなわ戦後のスタンダード民謡の一部に、おきえらぶ出身者もかかわっていたんですね。  

Posted by yasu-ken at 16:37Comments(4)TrackBack(0)はじめに

2006年08月06日

時はめぐり



もうおととしのことになりますが、2004年春 沖永良部島 瀬利覚集落(ジッキョ)付近で、県道をほぼ一直線にする為 いくつかの家が移動するか、一部を削る、ということになりました、
このことで 約230年-- 1770年頃からあった ある原型をとどめていた形の一部が削られることになりました、
集会所を基点に 殿内家(トゥンチ)--前殿内家(メードゥンチ)--西殿内(イードゥンチ)等々から成る
いまふうに言えば一つの‘チーム‘のあった形です、

ふりかえって、琉球の歴史、建築物、等々調べ照らしあわせてみると、敷地のとりかた、石の置き方、
門のかまえかた、カーブのとりかた・・・あるこだわりがあって造られたものだった---と、
今更ながら、身にしみるように分かってきました、

 分かっていることがあるなら、極力砂に埋もれないように努めよう!

そんな思いから、気づいたことを記していく---というかたちでこのブログ進めていきたいと思います。  

Posted by yasu-ken at 14:54Comments(0)TrackBack(0)はじめに